「個性」という呪縛
今週のYOMIURI Weeklyの町田康さんのエッセイ「テースト・オブ・苦虫」は、「なぜニートが増えるか」について書いていた。
ニートが増える「理由はいろいろあるのだろうけれども、ひとつには個人的でありすぎるというのがあるのではないか、と思った。」とある。
つまり働くには、会社にはいるのであれ、飲食店などで働くのであれ、個性はいらない・・というかむしろ邪魔になるものである。「ゴスロリファッションで身を包んだ店員」や「三角のハンドルに固執するクルマの設計者」など「個性的」な人ばかりでは、やっていけない。たとえスポーツ選手やミューシャンのよう「個性」で生きているような職業でも、基礎訓練や技能を身に付けるのは没個性的な作業が基本だ。
ところが、いついかなる場合においても個性がもっとも重要と教えられてきた若者には、どんな職業でも技術を習得するのに必要な、個性なき訓練を受けることができない。教育、職業的訓練が受けられないということである*1。
なるほど、すると彼らはすごい矛盾を抱えて大きくなっているわけだ。学校では「個性が大事」「自分らしさ」を大事にしろと教えられ、いざ一般社会を見たらそれが邪魔になってしまう。教育・訓練を受けることさえ、「個性的ではない」という理由で受け入れられないとしたら*2、そりゃ、今の社会に順応していくのは無理だろう。早くから「学校の建前」みたいなものに気付いて適応していく子はいいのだろうが、まじめに「個性」「自分らしさ」を探し出したらもう深みにはまっていってしまうかもしれない。
教育が原因となって、ニートを生み出しているとしたら、なんともおかしな話である。