否定形発話にみる精神的防御

論文風にタイトルつけてみたけど、そんな難しいことを論じるつもりじゃないっす。チビの発話から思ったことを少し。

ウチのチビはそれほど要求を前面に出す性格ではないが、その中でも何かしたい、ほしいというときに、なぜか否定形を使う。たとえば、

「今日は電車に乗らないよ」 → 真意「電車に乗って出かけたい」
「今日は公園に行かないよ」 → 真意「公園で遊びたい」
「今は買わないよ」 → 真意「ほしい。ほしい。買ってくれ!」

などなど。弱い希望形は「〜したい」だが、強い希望形はなぜか「〜しないよ」になる。ご丁寧に、手を横に振るしぐさが付くこともある。
返事としては、こちらにその気がなければ、

「そうだね、今日は××しないね」

となり、逆に、こちらにその気があれば、

「いや、今日は××するよ」

となる。前者の答えをした場合、そっかーという顔はするが、それ以上食い下がってくることはあまりない(しばらくたって、また同じように聞いてくることはあるけど)のに対し、後者の場合は、「やったー」。

会話としては成り立っているし、否定形の否定という結構高度な内容になっているけど、否定形でしか要求を言えないってなんだかなぁ。そんなに抑圧されているかなぁ。断られたときのための、心の防御をチビなりにしているのだろうか。保育園の保育参観ででも「〜してはいけません」という表現(注意)が多く見られたのが若干気になったが、その影響もあるのだろうか。こちらも、チビの喜ぶことを伝えるためには、「いや」と否定から入らなくてはならないのも、自分としては嬉しくない。さて、どうしたものか。